「最近、うちの子ちょっと口が臭くて」
トリミングの受付やお返しのときに、よくご相談いただく言葉です。
そう言われて口の中を見せていただくと、かなりの確率で同じ状態になっています。
歯と歯茎の境目に、すでにうっすらと歯石がついている。
そして、その境目の歯茎だけが、他の場所よりも一段濃い赤色に変わっている。
健康な歯茎はきれいなピンク色ですが、歯石が乗っているところだけ、まるで境界線を引いたように赤くなっています。

「口臭がする=そろそろ気をつけようかな」と思いがちですが、においが出ている時点で、すでに始まっています。
前回の記事でお伝えしたとおり、犬の口はたった3日で歯垢が石に変わる環境です。今回は、その歯石が居座り続けたあとに何が起きるのかを書きます。
まず知ってほしいのは、これが「歯」の病気ではないということ
歯周病と聞くと、歯が黄色く汚れたり、抜けたりするイメージが強いかもしれません。
でも、本当にダメージを受けているのは歯そのものではありません。
壊れていくのは、歯を支えている歯茎と骨です。
犬の歯は顎の骨に深く埋まっていて、その周りを歯茎が覆って固定しています。歯周病は、この土台のほうが少しずつ溶けていく病気です。
だから、見た目は白いきれいな歯のままでも、土台がゆるんでぐらぐらになることがあります。表面のパッと見だけでは、判断できません。
進行には、はっきりした分岐点があります
獣医療では細かくステージ分けされていますが、飼い主さんが把握しておくべきポイントは2つです。
第一段階:歯茎だけが炎症を起こしている状態
歯茎が赤く腫れたり、触ると血が出たりします。この時点では、まだ下の骨までは溶けていません。
この段階であれば、元の状態に戻る可能性があります。
第二段階:土台の骨が溶け始めている状態
炎症が歯茎の奥深くへ広がり、歯を支える骨を削り始めています。歯と歯茎の間に、深い隙間ができていきます。
ここから先は、元には戻りません。

一度溶けた顎の骨は、自然に再生することはありません。適切な治療で進行を食い止めることはできても、失った土台を取り戻すことはできない。
だから、どの段階で気づけるかが分かれ目になります。
そして冒頭の話に戻ります。口臭が気になり始めた時点で、多くの犬はすでに第一段階に入っています。
よくある誤解:歯石は「犯人」ではありません
ここで、多くの方が勘違いされているポイント。
「歯石がついているから歯茎が悪くなる。だから歯石を取りさえすれば治るはず」
——実は、違います。
歯茎に炎症を引き起こしている直接の犯人は、歯石ではなく細菌です。
歯に付く歯垢は、食べかすではなく細菌のかたまりです。その菌が毒素を出して歯茎を攻撃します。そして、歯垢が口の中のミネラルを吸収してかちかちに固まったものが、歯石です。
つまり歯石とは、細菌が住みついた「頑丈な家」のようなものです。
獣医歯科でも、歯石そのものが直接の病原というよりは、表面がざらざらしているために新しい細菌が付着しやすくなる「足場」として整理されています。
家をいくら外側から削り落としても、住人である菌を毎日減らさなければ、すぐにまた新しい家が建ちます。
だからこそ、日々の歯磨きで住人を増やさないことが一番大切になります。
犬の口の中にも「菌のバランス」があります
お腹の中に腸内フローラがあるように、犬の口の中でも無数の菌がバランスを取り合って暮らしています。
健康な口の中には良い菌も悪い菌もバランスよく存在していますが、歯垢が溜まって炎症が続くと、その均衡が崩れます。
歯周病を引き起こす菌が急増する。2024年に発表された研究では、歯周病の犬の口の中で、歯周病に関わる菌のグループ(ポルフィロモナス属)が、健康な犬の2倍以上に増えていたと報告されています。
歯周病はどこからか菌が飛んでくるのではなく、もともといる菌の均衡が崩れることで起きる病気です。
いま研究が進んでいる「乳酸菌」という方向
菌のバランスが問題なら、良い菌の側から働きかけられないか。
この発想で、人の歯科分野では乳酸菌の研究がかなり進んでいます。歯石を取る処置と合わせて乳酸菌を摂った人のほうが歯茎の経過が良かった、歯科にかかりにくい環境でも状態を維持できた、といった報告があります。
そして最近では、犬への応用研究も始まっています。
前回書いたとおり、犬と人では口の中のpHも菌の種類もまったく違います。そのため、健康な犬の口から採取した菌を使って犬用に開発する、という研究が進められています。
ただし、
これらはまだ研究段階です。人でも犬でも、すべての研究で同じ結果が出ているわけではありません。
口に入れた菌は、そのまま口の中に住み着いてはくれません。与えるのをやめると徐々に元の状態へ戻っていくため、取り入れている間だけのサポート、と考えておくのが現実的です。
何より、乳酸菌が歯垢を物理的に削り落としてくれるわけではありません。
菌のバランスに働きかけることと、こびりついた汚れをブラシで落とすことは、別の作業です。ベースとなる物理的なケアをなくすことはできません。
口の中にも菌のバランスがあって、それが崩れると歯周病になるのです。
進行した先に待っているもの
ケアをしないまま重度まで進むと、口の中だけに留まらない問題が起きてきます。
顎の骨が折れることがあります
歯を支える骨が溶け続けると、顎の骨自体が非常に薄くなります。
特に小型犬は、体の大きさに比べて歯が大きいため、周りの骨が溶けると残りが薄い。そして、支えきれなくなった顎が折れてしまうことがあります。ぶつけたわけでも、転んだわけでもありません。
さらに深刻なのは、ここまで進行すると治療そのものがリスクになるということです。
獣医療の資料には、重度の歯周病がある小型犬では、手術で麻酔の管を入れるとき、通常の歯科処置や抜歯の際にも骨折が起こりうると記載されています。
治そうとして口を開けた、その力で折れる。
ここまで進行すると、治療の選択肢が極端に狭くなります。
口と鼻が、穴でつながることがあります
上の大きな歯、特に犬歯の根元は、鼻の空間と薄い骨一枚で接しています。
その骨が溶けてなくなると、口と鼻がつながってしまうことがあります。こうなると、水を飲むと鼻から漏れてきたり、くしゃみや鼻水、鼻血が続いたりします。
高齢の小型犬や、ダックスなどの犬種で多く見られると報告されています。
「急に鼻水が出始めたから風邪かと思ったら、原因は歯だった」というケースは、少なくありません。
目の下が腫れることがあります
上の奥歯の根元は、ちょうど目の一番深い部分のすぐ下にあります。
ここで強い炎症が起きると、目の下が腫れることがあります。獣医療の資料では、目の組織に影響が及ぶ可能性も指摘されています。
顎、鼻、目。
歯周病は、口の中だけの問題ではありません。
そして、犬は「痛い」と言いません
これほどの状態になっていても、飼い主さんが気づけない最大の理由があります。
犬は、口がどれだけ痛くてもごはんを食べ続けます。
食べることは生きることに直結しているので、多少の痛みがあっても平然と飲み込んでしまう。「ちゃんと食べているから大丈夫」という判断は、残念ながらあてになりません。
実際に病院で重症の歯を抜いたあと、「急におもちゃで遊ぶようになった」「表情が明るくなった」と驚かれる飼い主さんがいます。
それは元気が戻ったのではなく——ずっと痛かった、ということです。
なぜ「無麻酔の歯石取り」は選択肢に入らないのか
歯石が気になって検索すると、こういう言葉が目に入るかもしれません。
「無麻酔で手軽に歯石除去」「トリミングと一緒に」「サロンで即日きれいに」
犬関連のイベントでも出張歯石取り、みたいにして見かけたりしますよね。
これは、選んではいけません。
私はトリミングサロンを経営していますが、だからこそ書いておかなければいけない、そして飼い主さんに知ってもらいたい、と思っています。
理由①:獣医師の診療行為だからです
スケーラーを使った歯石の除去について、農林水産省は「獣医師の獣医学的判断及び技術をもって行う診療行為」と明示しています。
診療行為である以上、獣医師以外が業として行うことはできません。トリミングサロンも、ペットショップも、トリマーもです。
「うちではやっていません」ではなく、「やってはいけないことになっています」が正確です。

理由②:エナメル質を傷つけ、進行を早めてしまうからです
前回の記事でお伝えしたとおり、犬の歯の表面を覆うエナメル質は、薄いところで0.1mmしかありません。コピー用紙1枚分です。
麻酔なしで、金属の器具で硬い歯石を削る。
その0.1mmに傷が入らない保証は、どこにもありません。
そして傷がついた歯の表面は、以前よりざらざらになります。取ったつもりが、次の歯垢を付きやすくしているということが起こりえます。
理由③:一番ケアすべき場所に、届かないからです
ここまで書いてきたとおり、病気が進むのは歯茎の中です。
意識がある犬の歯茎の奥まで器具を入れることは、痛みを伴うためできません。つまり無麻酔でできるのは、目に見える表面の歯石を削り取ることだけです。
表面だけ白くなって「きれいになった」と安心してしまうことが、いちばん危険です。
口の奥では着々と骨が溶けているのに、病院へ行く機会を逃してしまうからです。
歯茎の奥まで処置ができて、レントゲンで骨の状態まで確認できるのは、適切な麻酔管理ができる動物病院だけです。
「歯石取り」という言葉を使っていなくても、実質的に同じことをしているサービスがあります。呼び名を変えても、犬の歯石を取って料金をいただく行為であることは変わりません。
それは、獣医師以外がやってはいけないことです。
だから飼い主さんも、そういうサービスには手を出さないでください。安く済んだように見えて、失うものが大きすぎます。
今日からできること
いろいろ書いてきましたが、結論はとてもシンプルです。
毎日、歯ブラシで歯垢を落とすこと。
これに勝るケアはありません。固まる前の柔らかい歯垢のうちなら、家庭のブラッシングで落とせるからです。
——とはいえ。
「それができたら苦労しないよ」という声も、よ~くわかります。
実際、うちにいらっしゃる飼い主さんのほとんどが、歯磨き嫌いに悩んで、歯磨きガムやデンタルシート、飲み水に混ぜるものに頼っていらっしゃいます。
そこで次の記事では、市販のデンタルケアグッズが実際どこまでできるのかを、ひとつずつ見ていきます。
ガムにもシートにも、得意と不得意があります。それを知らないまま使っていると、気づいたときには間に合わない、ということが起こります。

まとめ
- 口臭が気になり始めた時点で、歯茎の炎症はすでに始まっています
- 歯周病は歯ではなく、歯を支える歯茎と骨が壊れていく病気です
- 歯茎だけの段階なら戻る可能性がありますが、骨が溶け始めると再生しません
- 歯石は犯人ではなく、菌の足場。本当の敵は細菌です
- 口の中の菌のバランスが崩れることで起きるため、日々菌を増やさないことが要になります
- 重度まで進むと顎の骨折や鼻の症状、目の下の腫れを引き起こし、治療そのものが危険になることもあります
- 「ごはんを食べているから大丈夫」は通用しません。犬は痛みを隠します
- 無麻酔の歯石取りは選択肢に入りません。診療行為であり、届かず、そして安心させてしまうからです
今日、口元を少しめくってみてください。
歯と歯茎の境目が、他より濃い赤色になっていませんか。
もしなっていたら、それは「まだ戻せる段階にいる」というサインでもあります。
参考にした資料
- 農林水産省 — 動物の診療行為に関する見解(スケーラーを用いる歯石除去について)
- American Veterinary Dental College(米国獣医歯科学会)— 歯周病の分類
- Merck Veterinary Manual — Periodontal Disease in Small Animals
- Today’s Veterinary Nurse / Today’s Veterinary Practice — 歯周病に関する解説
- Royal Canin Academy — 小型犬の歯科疾患について
- Frontiers in Microbiology(2024)— 犬の口腔内細菌叢に関する研究
- Frontiers in Veterinary Science — 犬の歯周病に対する微生物療法/犬の口腔健康のための乳酸菌に関する研究
- Journal of Clinical Periodontology ほか — ヒトにおける乳酸菌と歯周病の臨床試験

コメント